2019.4.11 中建日報 診断士が語る戦争を経験した橋 2回目 原爆を経験した橋2 | プレス情報 | 広島県コンクリート診断士会

2019年4月11日 中建日報

診断士が語る戦争を経験した橋 2回目 原爆を経験した橋2

診断士が語る戦争を経験した橋 2回目 原爆を経験した橋2 | プレス情報 | 広島県コンクリート診断士会

橋名が人名に由来する橋

 栄橋は、はじめ1906年に熊谷栄次郎という人が建設費の3分の1を寄付して作られた木橋でした。橋名は、この人の名から一字がとられたものです。彼は広島の豪商で、今の中国電力の礎を築いた人だそうです。しかし、先代のこの橋は28年の洪水で隣の栄橋水管橋と共に流失、30年に鉄筋コンクリート橋に再建されました。被爆後は駅近くにあった木橋の駅前橋が燃え落ちてしまったため、広島駅から紙屋町方面に向かう近道としてそれまで以上に多くの人に利用されてきました。
 現在の栄橋は橋脚数が流される以前の橋と変わらず7基あり、川の流れへの抵抗が大きいことから洪水の懸念があるといえます。戦後、太田川放水路が整備されてから市内中心部では重大な洪水被害は出ていませんが、広島駅周辺の通行に欠くことのできない橋だけに、今後とも大事に見守りたいと思います。

兄弟橋の奇遇

 荒神橋と比治山橋は兄弟橋ではないかと思われます。その理由は同じ鉄筋コンクリート・ゲルバー形式の橋であるだけでなく、完成した年も同じ39年。橋長は80mと148mで比治山橋の方が長いのですが、幅員は同じ20m。外観も中央径間にゲルバー桁を配し、よく似ています。そして、どちらも被爆での被害は軽微で高覧が爆風で倒れる程度に留まっています。違うことといえば、荒神橋が電車併用橋であるのに対し、比治山橋は道路専用橋であることぐらいです。兄弟橋という推定は、同じ設計思想で複数の橋を建設することで設計費を節約でき、建設資材も効率的に使用できるためです。
 しかし、この2つの橋が被爆橋梁として共に残った理由がその材質や構造形式にあったのかというと、それは疑問です。鉄筋コンクリート橋は重量があるので爆風に強いかといえば、確かに木橋よりは有利だったかもしれませんが、当時59橋あったうちの鉄橋17橋もすべて残っており(大被害を受けた本川橋もありますが)、何かの因縁があるのかもしれません。

見落とされていた橋

 観光橋は、原爆による被害をまとめた広島平和記念資料館発行の「広島原爆戦災誌」(71年)には記載は見られませんが、「ヒロシマの被爆建造物は語る」(96年)には記載があり、いつごろ被爆橋梁として認知されたのかは不明です。なぜ当初なかったのか、それはこの橋が他の被爆橋梁と比較して橋長が短く、地味なコンクリート橋であるためかもしれません。また、当時の山手川に注ぐ小河川の八幡川に架かる街中の橋であったことも見落とされた理由ではないかと思われます。
 この橋の名前の由来は西広島(当時は己斐)と宮島を結ぶ国道として、宮島街道、別名「観光道路」が整備されたことによるもので、観光振興に寄与することを期待しての命名と思います。旧国道ですので橋長は10mですが、幅員は22mもあり親柱も建っています。同じく被爆から残った先代の己斐橋と共に山口方面からの復興支援ということで広島にはなくてはならない橋だったのです。

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