2019.7.10 中建日報 診断士が語る 戦争を経験した橋 10回目 原爆による橋の被害 | プレス情報 | 広島県コンクリート診断士会

2019年7月10日 中建日報

診断士が語る 戦争を経験した橋 11回目 原爆による橋の被害

2019年7月10日 中建日報 | 広島県コンクリート診断士会

相生橋の被害

 再び広島の原爆を経験した橋の話に戻ります。相生橋に関しては被爆後多くの調査がかけられ、記録が残されています。その記録から被害の状況を改めて見てみることにします。
 被爆後、当時の建設省から派遣されて調査に当たった角田孝志技師が記した報告「広島市相生橋の原爆被害について」(土木学会誌、1950年発行)には以下のような趣旨の記述があります(箇条書きは筆者による)。
 1)両側の歩道部分の床版は一度空中に吹き上げられ、上流側は1・2m、車道側は40cmほど移動して落下破壊し、高欄は上下流側とも河川内に飛散した。
 2)歩道床版が浮き上がったのは、床版の横方向の配力筋が中間の軌道側と分断されていたためと推定する。軌道側床版は主桁フランジが床版に埋め込まれていたため移動はなかったが、無数にひび割れが入った。
 3)主桁支承部のアンカーボルトはねじれ、ウェブ板は10mm内外のS字型に歪が生じた。
 ここに記された歩道床版が川の水面で跳ね返ってきた爆風による突き上げで破壊されたという事実は衝撃的な話と思います。ただ上記以外の説明はなく「復旧は主桁構造を残し、床版更新だけで行った」旨の報告となっています。被爆後の状況をみると、直後でも歩行者や自動車の通行はできており、1カ月後には市内電車の運転が再開され、83年の掛け替えまで供用されました。米国戦略爆撃調査団の調査(11月20日)では歩道側の桁下の撮影が残されていますが、これを見ても主桁の局部座屈はあったものの被害は軽度に留まったと推定します。

原爆による橋の被害

 ここで、改めて原爆による橋の被害はどのようなものであったかを追ってみます。
 まず破壊されたのは仮橋の木橋4橋で爆風で飛ばされたと思われます。次に木橋の多くが被爆後の火事で燃え上がり、消火されたものもありますが5橋が焼失しました。つまり、木橋に関しては24橋中15橋が残り、コンクリート橋14橋、鉄橋17橋はすべて残りました。
 しかし、これらの橋でもほぼ共通した被害は高覧の倒壊です。これまで、原爆の爆風被害は多くの建造物で確認されていることですが、橋に関してはそれが高覧に顕著に出ました。被害は爆風が走る方向の面積が影響しているものと思われますが、背の高いアーチ橋の横川橋、木製の吊り橋の工兵橋、トラス形式の水管橋(猿猴橋水管橋、栄橋水管橋、神田橋水管橋、新大橋水管橋)のように比較的水平投影面積が大きな橋でも大きな被害は出なかったことから、それだけが支配的ではないことになります。爆風と平行する方向にかかっていた横川橋や、遮蔽する樹木のあった工兵橋は運も幸いしていたのかもしれません。
 26年に架けられた元安橋は、爆心地から130mと最も近い位置にあった橋です。この橋の高覧は上流側、下流側と左右分かれて倒壊していることから、爆風が真上から作用したと考えられています。しかし高覧の倒壊だけの被害で済み、その後補修されながら92年の架け替えまで供用されました。
 被爆から残った橋もその後の台風によって多くが流出したことを踏まえると、広島の橋にとっては原爆以上に洪水被害が深刻であったということでしょうか。
 
注記:写真は広島平和記念資料館「平和データベース」、米国戦略爆撃調査団撮影(米国国立公文書館提供)によります。
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